野岩・会津鉄道小話


※長い記事なので途中で途切れたらリロードしてください

現在、東京から会津までの裏街道として東武スカイツリーライン・日光線・鬼怒川線・野岩線・会津線ルートがあります。
ただこのルート作るべるして作られたルートではありません。

さまざまな偶然が重なり構築されたルートです。

これを追って行きます。

・全通前(参考文献:野岩・会津鉄道建設運動史)

1.東武日光線

このルートで一番早い開通が、1899年の伊勢崎線で現在のスカイツリーラインです。
東武鉄道初の路線は北千住~久喜間で、今回の話で該当する区間は北千住~杉戸(東武動物公園)が該当
元々東武鉄道は両毛地区の産物を都内まで輸送する事を目的としていまして、
会津までのルートというのは一切ありません。当時は。

杉戸までは日光街道(→国道4号)沿いで、千住・草加・越谷・春日部・杉戸は日光街道の宿場町でしたね。
すべて現在の急行停車駅に含まれてますね。
既に産業が発展していた両毛地区と都内を日本鉄道(現→JR宇都宮線)が通らなかった日光街道の街を通すって事ですね。
海運航路と繋げるにしても越中島辺りに行くのに千住から鉄道の無かった日光街道沿いを通るのもまあ理にはかなってますけどね。

現在のJR宇都宮線が栗橋以南で日光街道沿いに進まないのは、元は高崎線が先に出来ていてそこから分岐したからです。
一応日本鉄道がこのルートの鉄道敷設も考えていたらしいですけどね。

この久喜以南の区間は現在でも東武鉄道の主力かつ利用者も列車本数も最も多いです。

そして、東武の路線では鬼怒川線も早期の開通になります。
こちらは、鬼怒川の奥地にある発電所への資材輸送のために、新今市(JR今市付近)~新藤原を1922年までに順次開通させたのが始まりです。
ですが東武鉄道が敷いたわけではなく下野軌道っていう軽便鉄道会社で線路の幅も762mmと、現在の1067mmより狭いです。
軽便鉄道っていうのはその名の通り、簡易的な線路規格で敷設された鉄道です。
現在でも西日本で多く残る路面電車を筆頭とする軌道線とはまた違います。

当時は電力事業と電鉄事業はセットで行うのが多く、この鬼怒川の発電所は小田急系の鬼怒川水力電気という会社のものでした。
その後、電力事業が国策で分離され、現在の東京電力といった電気会社になります。

ただ、この鉄道はあまり儲けが良いものではなく、鬼怒川の観光が認知されたと共に電化されますが、
バスとの競合が激化します。
ちなみに鬼怒川温泉は明治以降に解放された温泉地で、江戸時代では滝温泉と言われ、大名とか坊主しか入れない密湯だったようです。

その後、昭和の時代になり、東武が日光線を開通させます。(1929年)

日光は東照宮のほかにも輪王寺等江戸時代以前から聖地的な観光地として、明治期以降は外国人にも人気の避暑地として賑わう場所になり、
日光への観光輸送を狙ったものです。
東武鉄道は貨物輸送も行う路線が多かったですし、伊勢崎線系統なんかそんな感じでしたが、
日光線は旅客輸送メインの路線ですね

元々は佐野線の延伸を計画しましたが山越えとなること、宿場町で人口の多い幸手・栗橋を通るルートのほうが良い
ということで杉戸からの分岐となります。
まあ当時もすでにあの辺の問屋町として栄えていた栃木も通れるしってのもあると思いますけど。
開通当初から複線で電化されてまして、当時電車というのは路面電車や近距離を走るのが常識だったところ、
距離にして120km以上を走り抜け、近鉄と並ぶ長距離電車の先駆けとなります。
ちなみに東武鉄道が佐野線を買収したのはこの名残

国鉄線では宇都宮での方向転換が必要で、まだ東北本線の電化区間は東京~大宮のいわゆる国電区間のみ(大宮~宇都宮間の電化は戦後の1958年)
電化都市間輸送路線である東武日光線が開通し、今市まで最速のルートとなると、
先述の下野軌道改め下野電気鉄道は、東武との関係を強め、東武日光線に乗りられるように規格を改めます。

…が、下野電気鉄道は経営体力が盤石というわけではないですし、戦時統合の煽りもあり、下野電気鉄道は東武鬼怒川線になります。


その日光線のルートについてですが。

当初予定の佐野線からの延伸になると、葛生の方からそのまま鹿沼まで抜けて日光例幣使街道沿いの現行ルートに達します。
上記の幸手・栗橋も日光街道の宿場町で、日光街道は栗橋からは現在のJR宇都宮線・JR日光線沿いに進んでいきます。

で現在の栗橋~栃木の間は、利根川や渡良瀬川といった主要河川を横断する区間です。
その渡良瀬川は今とは違う流路で、割と洪水が起きるような地域で、かの足尾鉱毒事件の被害を受けたところです。
それに対する治水対策で出来たのが渡良瀬遊水地で現在の渡良瀬川の流路になります。
これらが完成したのちに日光線が開通と相成ります。

その中で特に栗橋から板倉東洋大前間はカーブが連続していますし、藤岡駅北方の渡良瀬川橋梁部分も速度制限がかかる箇所になります。

川の橋梁は基本的に川に対して直角に橋を架けます。
橋のコストや川の水流に対しての橋桁に掛かる力の関係だそうです。

栗橋を出てすぐ利根川を渡り、遊水地を避け、かつなるだけ緩やかなカーブを描きながら渡良瀬川を渡るルートを取っています。

なので、栗橋~板倉東洋大前間が遠回りな理由は、↑で大体説明付きますかね?

そして区間の前後は結構特急がかっ飛ばせる区間で、
実際に特急列車に乗ってスマフォのアプリやストップウォッチ機能で速度や時間を測ってみると、
ものの見事に日光線の線形を現したかのようにはっきり出てきます。

時刻表上の栃木→春日部の表定速度は89㎞。(50.6㎞、上り34分)
その時々の運転状況で多少の前後はありますが。

栃木→新大平下:82㎞/h(3分30秒)
新大平下→板倉東洋大前:102㎞/h(8分30秒)
板倉東洋大前→南栗橋間:87㎞/h(10分30秒)
南栗橋→東武動物公園:89㎞/h(7分)
東武動物公園→春日部:80.5㎞/h(4分)

実際乗った時はこんな感じでした。
ちなみに、板倉東洋大前に停まる特急の板倉東洋大前→栃木の表定速度が90㎞/h(13分)です。

って感じなので板倉東洋大前以北は、藤岡駅北方の渡良瀬川橋梁以外はほぼ制限ないので、結構飛ばしてるのが分かるかと思います。
上りだと板倉東洋大前通過後速度を落として栗橋位まで連続で速度が出ないことを考えても割と速度出てますけどね(笑)
とは言っても結構惰行も使うので、割と日光線内のダイヤは緩めに構成されていますね。
回復運転時は定速使えばその分時刻詰められますし、ATSの設定も最高速度+5㎞/h程度の余裕もありますし。

数字で示す通り優等列車が飛ばせる区間が多くなるように、日光線は東武動物公園(当時は杉戸)分岐で敷設したって事ですね。
ちなみに東武動物公園通過自体はかなり速度制限掛かります。平面交差ですし。
後の方にこの特急と旧・快速がどうなったかって話題が出てきます。

ちなみに沿線の(B級?)観光スポットに埼玉・群馬・栃木の三県境ってのがありますがこれは上記の渡良瀬川流路の歴史の一つです。
渡良瀬川と谷田川の合流部だったそうです。明治時代の測量図見ると。

そんなわけで東武日光線は東武特急が最も飛ばす路線であり、現在においても日光へのメインルートになってます。
このルートの根本にあたる東武線浅草~新藤原間の開通経緯はこんな感じですかね。

2.野岩鉄道・会津鉄道線

この区間ですが、戦前に開通したのは、他にも会津線の会津田島~会津若松があります。(1927年に上三寄(→現芦ノ牧温泉))
こちらも鬼怒川線と同じく軽便鉄道規格の地方鉄道です。
南会津と会津若松を結ぶローカルな鉄道で、貨物も走っていました。

ここまで戦前に開通したのは東武鉄道浅草~新藤原・会津田島~会津若松ですので、
これだけ見れば、現在のように東京~会津を結ぶ気満々だったかのように見えますが、そんなことはありません。
上記を見れば当時の東武がそのような意図が無い事は分かるかと思いますし。

会津への鉄道は日本鉄道線の延伸に伴って新潟から伸びていく路線の計画が立ち上がり、
1892年日本鉄道(東北本線)が上野から青森まで全通させた頃、鉄道敷設法で
北越線(現在の信越線と羽越線の直江津~新発田間に相当)及び奥羽線に連絡する路線
新潟県新発田から新潟県米沢への鉄道
もしくは
新潟県新津から福島県(会津)若松を経由して白河・本宮近辺への鉄道

これが部分的には会津線の出発点になります。
新津~会津若松~白河・本宮の会津若松~白河の部分ですね。

どちらかというと現在の磐越西線に相当する感じですけども。
こういうのは割かしネットの情報だけでも拾えるところですが、

実は南会津郡では同時期に独自案である野岩越線として現在のJR日光線延伸という形での現・会津線、磐越西線ルートを求めていきます。
これは江戸期からの会津西街道沿いとなる路線ですね。

まあ上記の鉄道敷設法にそった岩越鉄道という私鉄会社が1906年に国有化されつつ現在の磐越西線を1898年から1914年にかけて建設します。
そこで一旦沙汰止みになります。

ちなみに、白河ではなく郡山に東北本線との結節点を求めたのは、
恐らくですが、現・会津線沿線から白河へは、甲子峠を筆頭に険しい山越えとなるからですかね?。
険しさの一例として、会津下郷辺りから白河市内を結ぶ通称甲子道路、国道289号線ですが、
その甲子道路は2008年に甲子トンネルが貫通するまで、自動車は通れない登山国道でした。
しかも途中の石楠花トンネルは建設途中に崩落が起き、供用前にもかかわらず放棄され新たにトンネルを掘りなおした区間があるほど。

この岩越鉄道とこの野岩越線は建設にめぐり競願をしてまたが、
元々上記の通り会津西街道沿いであり、その頃から開かれたルートなんで山越えも有利になること理由に、
野岩越線側としては東京から新潟への経路はこれが一番コスパが良いとしています。

野岩越線も岩越鉄道もは国による建設が当初予定ですが、上記の通り私鉄としての建設に切り替えられており、
野岩越線は先に現在の磐越西線が建設されたのもあり、このころには野岩線計画に変更され、1895年に野岩鉄道会社が立ち上がるんですが。
それでもなかなか請願が通らずでした。
私鉄に切り替えたのはさっさと作る為だったんですけどね…(1898年野岩鉄道会社は消滅)

ですが、軽便鉄道という概念が出来た頃、その軽便鉄道規格で会津田島~会津若松を建設し、ゆくゆくは西那須野駅まで延伸する計画を出します。

ここでやっと1922年の鉄道敷設法別表にて
米沢~喜多方、今市~高徳~(会津)田島、高徳~矢板が示され、
上野~宇都宮~今市~会津田島~会津若松~喜多方~米沢と結んで、
東北本線と奥羽本線のバイパスとして開通させる計画が決まりました。

当然ながらこれも地域の計画があっての事なんですけどね。

余談ですが只見線はこの時柳津線と呼ばれ、この野岩羽線の支線という位置付けでした。
開通としては只見線の方が早いんですけどね。
まあ電源開発とかその辺の事情があるんですかね?
それが関係してるか分かりませんが、会津若松~会津坂下があの南側に遠回りなルートはこの関係なのもあるかもしれません

上記の通り鉄道国有化法が通った後の話なんで当然国鉄線としての開通
東武鉄道も国有化されかけましたが、(恐らく利害関係者が居たのか)貴族院で否決されたので免れてます。
時系列が逆なんで分かりにくいですが、日光線開通はこの後の話。

で、元々この野岩線・会津線沿線は江戸時代からの街道として利用されているのは書きましたが、
このルートの山越えも有利とは言えどもやはり簡単な話ではなく、栃木/福島県境の山王峠・福島/山形県境の大峠があります。
並行する国道121号も1980年や平成に入るまで酷道として有名な道でした。
このルート「も」と書きましたが、会津盆地と言われるような土地柄ですので当たり前といえば当たり前ですね。

肝心の会津線は
上記の通り1927年会津若松~上三寄
1934年に上三寄~会津田島が敷設されます。

ここまでが、東武日光線も含めて戦前の話になります。


戦後になり、喜多方~米沢の一部に当たる喜多方から熱塩までの日中線が開通します。
熱塩の近くには熱塩温泉とか日中温泉があります。

で、会津線は、1947年会津荒海までの延伸を経て1953年会津滝ノ原(現・会津高原尾瀬口)まで延伸してきました。
こちらも山王峠は越えられませんでした。
そしてこの会津線延伸は野岩羽線構想の一環です。
戦争の影響もあったんですが、山王峠越えに関するルートについてひと悶着あったのも理由かと思われます。

山王峠を超えるルートは糸沢(→七ヶ岳登山口)~上三依(→上三依塩原温泉口)が該当しますが、
この部分だけ国道121号とずいぶん離れてます。
それは、国道121号沿いに通るか、会津滝ノ原、横川(→男鹿高原)経由(建設ルート)かで、議論になったそうです。
まあ、観光や資源開発の関係で現在のルートになりましたが。
とは言っても1953年の会津滝ノ原開通で完全にルートが決した感じになりますがね。

ちなみにこのころから実は東京~会津をこの日光経由で行くこともできました。
鬼怒川~会津田島を会津バスと東武バスで走らせていたからです。
メインは沿線の湯西川や五十里湖への観光輸送でしょうけど…

ここから野岩鉄道の本題に入っていきます。

1953年の会津滝ノ原開通から野岩鉄道開通の1986年の開通まで
30年ほど空いていますが、この間に何があったのかという話なんですが。


引き続き、今市~滝ノ原の建設に向けて動きます。
この他に、滝ノ原から分岐して古町(R401沿い)と、上三依から西那須野、矢板への支線の建設も計画されますが、
ここで上記の五十里湖が出てきます。

その五十里湖はダムで1953年に建設が決定しますが、これがダム建設地に鉄道を引けるのかという話になり
野岩線本線を矢板へ持っていったらどうかという意見が出ます。
が、今市といった沿線はふざけるなということで、この話は無かった事に…とはなりませんでした。

これが、栃木県内で東北本線への接続地点について大モメになるトリガーを引くことになります。
↑野岩鉄道開通が遅れた理由その1

県としては、建設陳情に関してどこで東北本線と接続させるかということや、東武鬼怒川線との調整、
地元の調整などでゴタついたようですが、その辺は国鉄に一任するとなりました。

で、現在では普通に野岩線がダムに長大橋梁を掛けていますし、長大トンネルをガンガンに掘り進みましたけど、
1950年代では色々と厳しい面があったのでしょうねぇ…
初期計画が五十里湖左岸を通るルートだったのを右岸を通る現行ルートに変更したのはやはり建設技術の向上もあるかとは思います。(沿線の要求もあって)

で、これは国鉄一任後も揉めましたがこちらは終息します。遅れの原因になると。

しかし一番の原因が、東武鬼怒川線との調整

東武鬼怒川線との調整で言えば、
国鉄側として、とりあえず新藤原まで建設して、鬼怒川線との直通で国鉄日光線に抜けたい

東武側は日光輸送で国鉄とやりあってきたわけでそんなの飲めるわけはなく。
日光だけじゃなくて鬼怒川や川治・湯西川エリアにまで競合が広がりますからね。

鉄道は鬼怒川までですけど、東武バスは上記エリアまで運行しているので。(グループの日光交通含め)
まあ普通に考えて民間企業がメリットも無いのに敵に塩を送る事はしないですから。

最初は断固反対だったのが、東武エリアをかすめるだけの矢板連絡を検討する事
→新藤原接続にするにしても旅客は都内、貨物は栗橋まで東武で引き受けで、今市での国鉄連絡はしない
と、軟化をさせていますが。

当時は地元議員的には、「何だそれ」な話だったんですが、まあ現実の通りこれが後々に大きな突破口となります。

ただ国鉄としては鬼怒川線はあまりスピード出せない路線(上記の歴史を見ればわかると思います)だし、途中に私鉄線を挟むとなると色々と手間だし、
平行線として野岩線を引いて直接東北本線に接続したいと思うわけで。
ただ、平行線があるということは収支や需要的に考えれば国鉄とて良い話ではないわけです。

しかしこのままでは埒が明かないし福島県からの突き上げもあるんでとりあえず滝ノ原側から上三依まで建設し、調整が付き次第今市まで建設の流れをとることになります。
が、国鉄としては東武に都内までの輸送に頭を抑えられるのは嫌だし、東武も国鉄に殴りこまれても困るわけです。
…まあ国鉄で日光線につなげても都内に直通させるには宇都宮でスイッチバックになるんでそこ繋げてもねぇと管理人は思う所ですが。

そんな感じでゴタゴタしてるうちに国鉄再建法が施行され、分割民営化が既定路線になると、ローカル線敷設中止・特定地方交通線問題が出てきます。
その中には野岩線や会津線・日中線も対象になります。

で、建設中の下野川治(→川治温泉)~会津滝ノ原の野岩線と会津線は国鉄としては残ることが不可能で、
廃線か第三セクターとして引き継ぐか、の2通りとなり、

最終的には第三セクターを設立し、国鉄・JRから手を離れることで廃線を免れます。
野岩線は今市までの延伸予定と書きましたが、上記のゴタゴタに加えて、建設の手間・カネの関係で東武鬼怒川線との連絡に変更されます。

非電化で開通して、東武線とは乗換という形になる計画だったらしいんですが、
大株主の沿線自治体は、東京への直通が欲しいし、会津~東京の流動を考えると、
新藤原と会津高原の乗り換えは話にならないんで。
同じく大株主の東武鉄道は、自社の輸送エリア拡大という利点
というところで、東武の電車が入れるように…という事だそうです。

日中線については1984年に廃止

会津線に関していえば、野岩線と接続し東京からの幹線に組み込まれる事もあり、地元でも鉄道として存続させたいとの事で
第三セクターでの開業になりました。

てな感じが野岩鉄道・会津鉄道転換への流れになるんですが、
東武は上記の通り、地元の期待の大きい野岩線の国鉄運営を反対した立場であったわけで、一気に手のひら返すのも一見不思議な感じです。


ですが、時代背景を考えるならば、
70年代後半以降はちょうど国鉄再建の時期で、分割民営化の話が出たり、
国鉄上層部としては当時自力再建を目指していたので分割民営化とは直接的な関係は無いですが、特定地方交通線の問題もあったわけです。
しかも会津線・日中線は特定地方交通線の前段階の取り組み、赤字83線にも指定された路線で、
そもそも国鉄とてもう切りたい路線ですらあったわけなんですね。

沿線と国鉄の会合において
国鉄は
・ウチじゃなくて東武線と繋げて東京への乗り入れを強化したら?
・そもそも単線のローカル線だし、地域開発よりも観光開発の側面が大きいし、伊豆や箱根みたいにしないといけないのでは?
・時代は新幹線なんだから那須塩原辺りに繋げても良いんじゃね?
というのが本音だったそう。

で、東武も東武で、新藤原から東京まで東武で輸送を引き受けるならオッケーというスタンスでもありますし。

そんな時に残したきゃ地元で第三セクター設立して引き受けろ的な話も出ているので、
県・地域や地元議員は第三セクター会社での開通に動きます。
で、速く開通させたきゃ新藤原接続を呑めと国鉄側に突き付けられ、そこは吞まざるを得なかったそうです。

同時並行で西那須野エリアへの乗り入れ交渉もあったそうですが、第三セクター鉄道の話が具体化した頃には立ち消えたそうです。
↑矢板乗り入れはここで取り下げ

今市市域だけは唯一裏切られる形にはなりますが。
それがあるのか定かじゃないですが、東武線との直通を要求することになり、
お上としても、第三セクター鉄道転換のトリガーを引きたいのかその辺は柔軟に対応し、
野岩線の電化工事も負担する形になりました。
一応地元議員の「浅草から会津若松まで一つの幹線になるんだし全区間電化しちまえよ」って一言は実際あったそうです(笑)
バブル期らしい景気の良い話ですね

第3セクター化が決まってからは、東武線との直通に関する話など
県・地域や地元議員の働きかけ・中央への交渉の動きが一気に進む形になりました。
何故なら動きが進まなかった一番の要因である東武線との一件が第三セクター鉄道による東武線との連携に変わったからです。

東武自体も、新藤原から南の都内までの輸送は自社で引き受けるなら野岩線と繋げても構わないとしてますし(大事なんで3回書きました(笑))
官民で出資する第三セクター鉄道ってのは東武としてもオイシイ話だったって事ですね。

まあ、「たられば」ですが、このままJRになってたとしても結局のところ特定地方交通線なんで、
今みたいに毎時1本程度も走ってるかどうか、当然都内まで直通なんてことはないはずだし、
狭いエリアでの平行線を嫌い、新藤原接続が叶わず別案である西那須野や那須塩原へ向かっていたかもしれません。
まあそうなれば宇都宮までは行ってたかもしれませんけど。
烏山線と共通運用で。

で既存の国鉄会津線・日中線ですが、

会津線については国鉄での存続を希望しましたが、
特定地方交通線に関しては例外なく分割民営化後のJRに引き継がせないという方針が覆ることが無く
国鉄再建法にある2年間話の進展がない場合の問答無用バス転換させられる条項は適用させないと約束を取り付ける程度

県としては野岩鉄道が第三セクター鉄道としての開通が確定しているのに会津線の廃止とかどういうことか
って事なんですが、
結局こちらも第三セクター鉄道での存続となります。
まあ鉄道として残すことが最も優先すべき事柄で、野岩線の盲腸線化という将来への禍根を残さないためだそうです。
会津若松市街地まで列車をリレーさせられないんじゃ意味は無いですからね。
…まあ野岩線が出来て初めて会津線は盲腸線から脱却できるわけですし

第三セクター鉄道転換に踏み切れたのは沿線は南会津町・下郷町・会津若松市の3市町あり全くの人口希薄地帯じゃないし、
東京からの集客は可能で、会津エリア最大都市で(福島県内でも上位の)会津若松市は新幹線が通ってなく、通る予定も無く、
新幹線が早いとは言えども郡山乗継が必要で(会津鉄道もだけど)乗継の組み合わせ次第でって所の事情が大きいと思いますが。

で、野岩羽鉄道片割れの日中線は、大峠を越えられず廃止。
末期は、1日3往復で朝晩しか走らず、日中に走らない日中線と有名でした。
まあ、先述の通り大峠も最近の大峠道路開通まで並行のR121が酷道でその手では有名ですが、
仮に米沢まで開通する流れになったとして、時期的には高規格なルートになっていたでしょうけど。
まあ会津若松~米沢が基本的な運転になってたと思いますし、野岩・会津線みたく都内と連絡してるわけではないので、
毎時1本程度の運転がされていたかどうかでいえば厳しかったかもしれません。
ただその程度の輸送需要だから廃止されてしまったんですけど…
全通したとしたら2県にまたがるんで、出資関係の件で会津鉄道とは別になってたと思いますけど。
ちなみに、米沢側は米坂線の西米沢に接続させる計画で、開通してたとしたら会津線会津若松みたく全列車米沢線米沢に入ってたと思います。

会津地域でも野岩・会津線は東京との都市間輸送路線として繋がってナンボみたいなのもあって廃止させるわけにはいかないのでそちらが優先で
日中線は正直…な所はあったそうです。
米沢側で日中北線的なのがあればまた変わったと参考文献に書いてありましたがね。

…まあ実際に大峠道路走ってみると、こんなとこようバイパス通したなってレベルの地形にトンネル・橋を惜しげもなく投入してます。
で、鉄道引くとなると野岩鉄道並みの高規格さになったとして、鬼怒川温泉や会津田島直通入れて浅草から乗換一回でやったとしても
JRになってからですが、米沢じゃ新幹線が直通してくるとなるとかなり分が悪くなるし、
会津線はまだ南会津町・下郷町・会津若松市と3市町分の都内からの移動需要や観光資源があるのに対して、
旧熱塩駅~西米沢間はほぼ大峠越えでしいて言えば日中ダムや熱塩温泉
現行の会津線以上に回遊観光をかなり入れていかないと思われます。
東京都内と直接的に連絡できる野岩線や会津線ですら楽な状況じゃないのにこれじゃなぁってひとっ走りしただけで思う位ですし
車通りはそれなりだったんですがバスがあっさり消えるし、上記のスタンスもあり
日中線の延伸はおろか維持も到底望める話じゃなかったから国鉄分割民営化前に消えちゃったんでしょうね。
(ただ大峠道路の整備は日中線廃止とのバーターらしいですが)

国鉄再建やローカル線処遇に関して言えば賛否が結構分かれるところですが、

この野岩線や会津線に関して言えば、第三セクター化して東武線との関係を強めたのは良かったと管理人は思います。



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