地下鉄狂騒曲


今回は東武電車図鑑や過去の鉄道歴史シリーズにも出た東京の地下鉄に関するお話です
※参考文献
猪瀬直樹著 地下鉄は誰のものか
枝久保達也著 戦時下の地下鉄
各インターネットサイト
メトロアーカイブアルバム内東京メトロ各線建設史

序章

現在のメトロの路線では東武と東急を結ぶ路線(この二つと半蔵門線、副都心線)が多いですが
この話を知れば必然を感じる人もいるかもしれません…w
この地下鉄をめぐる話は東京やグレーター東京(首都圏)という都市の現代における発展の歴史でもあると思います。

鉄道が大きな役割を果たしたんですが日本は欧州とかと違って民間資本の鉄道、要は私鉄なんですけど
これが大きいところです。
こういった話をしていこうかなと思ってます。

ちなみに東京の地下鉄は13路線ありますが、
個人的には大きく4分類ぐらいできるかなと思っています。

一応時代に分けて書いてます。
長いのでその辺は勘弁してください(笑)


1.銀座線 〜東武VS東急〜

1940年現在で関係する路線図

現在の銀座線は新橋〜浅草を東京地下鉄道 渋谷〜新橋を東京高速鉄道が敷設、運営をしていました。 1927年に上野〜浅草を開通させていますが、 この東京地下鉄道の総指は早川徳次という人物で 東武の(初代)根津嘉一郎の部下として根津が取得していた現在の南海高野線や東武佐野線の経営再建を成功させます 根津と早川は同じ山梨の人間の縁らしいです。 で、その成功の褒美で早川は海外視察に出ます。 そこで見た地下鉄に衝撃を受け、東京での敷設に動きます。 当時の東京は既に名物満員電車なんて言われるほどに、市電が込み合ってる状況で、 これから嫌というほど出てくるんですが、 江戸からの市街地と言えば、 朱引と言われたところで、 現在でいえば中央区・千代田区・台東区・文京区・港区と西側でいえば外苑西通り位までです。 千住・板橋・新宿・品川は江戸四宿が現代に続く原点になっていて、 朱引がそのまま東京市になり、 その外側は東京府下の郡部の町村となり、 千住は足立郡千住町 北豊島群板橋町・豊島町(池袋)、豊多摩群淀橋町(新宿)・渋谷町、荏原群品川町というように分かれていき、 1932年に現在の東京23区の原型が出来ました。 現在の中央通りのルートを見れば察しがつく人もいるかもしれませんが、 新橋・銀座・日本橋・神田・上野が江戸から戦前位までの東京の中心で そこに浅草を加えた所が東京の繁華街で、浅草は今の感覚でいうと新宿・渋谷的な感覚でしょうか? その繁華街を直線的にかつ短時間で連絡できる交通機関として地下鉄に着目したわけです。 地上に作ろうにも場所無いしね。 で、その中央通りの真下に銀座線が走ってるわけです。 大阪の御堂筋線も戦前開通ですが、こちらも大阪の中心街を貫通する路線で、 市電に対して“都心内の急行線”という役割を持たせたのが東京では銀座線、大阪では御堂筋線 で、新橋〜浅草を一括開通させる見込みでしたが、 案の定理解が得られるわけでもなく色々と説得に回りまして建設に入ろうかというところに 関東大震災が発生します。 こうなると資金面で更に厳しくなってしまいますが、 登場から既に屈指の繁華街浅草と国鉄接続駅である上野を先行開通させるということになり 上野〜浅草を開通させました。 この東京地下鉄道の幹部には早川だけではなく根津も名を連ねているので東武系となったわけです。 その東武は都内〜両毛地区への貨物鉄道のほかに日光線への足掛かりとして先述の佐野鉄道を買収し日光輸送に投資をしていた頃で、 結局は現在の杉戸(東武動物公園)からの栗橋、栃木経由での日光線敷設となりました。 同時に都内の拠点選定に二転三転していた頃でもあり 亀戸からの越中島や現在の東陽町延伸は国鉄に横やりを入れられ、現在の東京スカイツリーである業平橋で止まっていましたが、 これを浅草まで延伸することになりました。(もっと言うと上野まで) ですが、同じ系列の東京地下鉄道の方に敷設免許が与えられている上に 当時の浅草のポジション的に東武としては浅草まででも?んだ感じになります この頃になれば東武日光線が段階的に延伸が進んでる頃で貨物輸送メインの伊勢崎線と違い 旅客輸送メインの日光線なんで、旅客利便性も考えて都心部にも入りたかったんでしょうけど 浅草は東京イチの繁華街だし、地下鉄は自社系列だし都心の深くまで達してるしで、浅草まででも、が大本命で上野はワンチャン位だったのかもしれません。 まあ東武と地下鉄で上野〜浅草をダブルトラックにしたかったというような見方もできますね。知らんけど。 1924年から計画がスタートし、先述の通り1927年に上野〜浅草が開通 1931年に東武浅草駅が浅草雷門という名で開通し、同年には万世橋延伸を経て神田まで延伸します。 1934年までに新橋に延伸し、 品川までの延伸のために、京浜電気鉄道(現在の京急)と共同で京浜地下鉄道というペーパーカンパニーを設立します。 東京の繁華街は上記の通りであり、山手線の西側は「森林、草原が広がっていて敷設が容易」って理由で 敷設されたくらいな上に、新橋〜横浜の鉄道も既に市街地で海岸を埋め立てて敷設したくらいなので 市街地を通る品川までの延伸から京浜電気鉄道との直通を企図します。 この辺までが東京地下鉄道、現・銀座線新橋〜浅草の経緯になります。 残った渋谷〜新橋はというと、 この区間は目蒲電鉄系の五島慶太率いる東京高速鉄道が開業させます(全通は1939年) この目蒲電鉄は田園都市株式会社傘下で、その田園都市株式会社こそが現在の東急となる会社です。 だから東急は鉄道会社スタートではなくディペロッパースタートなんです。 田園調布当たりの住宅開発をするにあたり、自前でも鉄道を用意するというのが目蒲電鉄で これが東急目黒線と多摩川線になるわけですが、五島の東京高速鉄道側の幹部として入るのは設立後の話です。 五島は鉄道官僚出身で、都市鉄道という金を産むガチョウの可能性に気付き この事業家として転身します。 目蒲線開通が関東大震災の頃で、その後東横線を開通させますが、不況からの不振に陥り 阪急の総指小林一三に倣い渋谷の開発に動きます。 ちなみにその阪急は鉄道会社スタートです。 都市鉄道は都心向きの片方向輸送になりやすいのでターミナルや終点の開発をして収益を上げる日本の電鉄経営のパイオニアです。 ターミナル開発は東急のほかに西鉄大牟田線の前身の九州鉄道も同じ手法を用いました。 とは言っても都心や繁華街は先述の通り、新橋、銀座、日本橋、上野、浅草で、既に東京地下鉄道が通っています。 渋谷〜新橋の東京高速鉄道を開通させ、東京地下鉄道に直通させるのを目論見ます。 ここまでは色々と知られた話だとは思いますが、 東京地下鉄道建設前までさかのぼれば 東京高架電気鉄道ってのが品川〜千住大橋、新宿〜本所ってのが1906年末に計画で現れ、頓挫し 市営地下鉄構想や内務省構想が浮上し、 このうち内務省構想の1号線計画として免許が下付され、 この1号線は五反田・芝公園・新橋〜現・銀座線〜浅草・押上を通るルートで この一部区間を東京地下鉄道が建設運営に入ることになります。 地下鉄を作ろうって時にちょうど早川が乗っかった感じですかね? 個人的に思ったのは浅草駅が銀座線の方が先なのは内務省構想と実際の免許の関係かなと思っていて 東武の浅草延伸が工事や土地の問題で時間を要したにしても、事業許可順でいっても東武浅草の方が後だし。 東武との接続駅がどこになるかは地下鉄の事業許可次第だったのかもしれないですね。(内務省構想通り押上までなら業平橋でも接続できるしね) で、最終的に浅草駅を接続駅&ターミナル駅にするって事になったと。銀座線開通時は東武駅が入った松屋工事中の関係で仮駅だったそうですし 東京地下鉄道と東武は資本や経営層的にどこかで接続駅をって考えがあったっていうのも自然ですし。 想像でしかないんで、実際のところは知らんけど。 とまあ、東京地下鉄道が品川方面への延伸に固執したのはこのような経緯があるからです。 それ以外の2〜5号線は東京市で建設する所 資金不足であることから東京高速鉄道に建設運営を委ねることになります。 …まあ既に東京の地下鉄はゴタゴタに巻き込まれる運命ではあったわけですね。 しかもこれが東京地下鉄の建設を請け負った土木会社が中心となって東京高速鉄道を設立したのがこれまたアレなわけで。 この計画は3号線渋谷〜現・銀座線〜虎ノ門・東京と、 4号線新宿〜赤坂見附〜日比谷〜築地もあり これが、築地から水天宮前、上野御徒町、春日、大塚に向かうルートが示され、丸ノ内線の原型となります。 1932年の話 東京地下鉄道は京橋まで延伸されていて、 この時点で両社の接続に関して協議がされています。 ただ、直通とかそういうのはまだ無かったようですけど。 東京高速鉄道側はそのまま昭和通りまで進めたかったためで、 東京地下鉄道は虎ノ門から南下する計画だったので虎ノ門接続が考えられたそうですが、 詳細協議は先送りされたのがまあ今でも知られた争いの種となって燻り続けることになります。 とりあえず東京地下鉄道側の新橋延伸を進めるという所はありましたし。 この辺が東京地下鉄道側が“都心内の急行線”って感じの都市内路線 東京高速鉄道側が、“都心への短絡線”って感じの郊外私鉄 ってな具合の違いが大きかったのが最大な要因に思えます。 これも今の感覚じゃ「ハァ?」ですけど(笑) この丸ノ内線の原型もこんな感じの考えがあるかなと思います。 ここまではこんなんですが、 上記の通り五島が東京高速鉄道側幹部に入ると一気に状況が変わってきます。 上述の田園都市株式会社に関わる事項から3号線渋谷・4号線新宿から新橋〜浅草の1号線に乗り込もうとしました。 で、当の東京地下鉄道側としては品川延伸の件で拒否をします。 それは当初計画通りに進めるべきだとする考えから来るもので、 東京高速鉄道側は都市開発に伴う需要に応じて建設すべきという考えがある為で、 もっと言うと4号線の四ツ谷〜赤坂見附はあくまでも連絡線という位置づけでした。 そんなわけで東京高速鉄道には計画通り虎ノ門から北上し丸の内方面の延伸を提案したらしいですけど、まあ受け入れられるわけは無いですね。 東京駅あたりは大正時代に出来たんですが、街としては江戸期からの下町の流れをくむ八重洲側の方が栄えていて、 丸の内側は(治安が安定したので)旧官有地を払い下げた三菱の土地だったんですが、三菱が原なんて地名で、東京駅開業を機に開発が加速したらしいんで、 基本は銀座や日本橋に直通できないと話にならんって事情もありましたね。 今でも三菱地所が丸の内に幅を利かせてるのはこういう事情から。 今になっちゃあ、丸の内側への乗り入れはオイシイ話に聞こえるけどね。 で、東京高速鉄道側は路線計画を変えようと目論んでおり しかもそれが、現在の銀座線・丸ノ内線とほぼ同じ形で構想しています。 違いでいえば、 現・銀座線は浅草〜赤坂見附が現行通り、ここから丸ノ内線経路で新宿へ 現・丸ノ内線が池袋〜赤坂見附が現行通り、ここから銀座線経路で渋谷へ って考えれば、渋谷からの3号線が東京へっていう計画通りにはなってんですけどね(笑) 個人的にはこの方が便利な気がしないでもないですが。 これに関しては東京の都市が変化してきたっていう事情もあるんですけどね。 で、出てくるのがいわゆる幻の新橋駅 東京高速鉄道側としてはとりあえず新橋に折り返しホームを設けて新橋を挟んで各社折り返し運転をするという妥協案 ってのが知られた話ですが。 実は現・丸ノ内線池袋〜赤坂見附のルートに関しては計画の練り直しが時間を要するので後回しにし、 浅草〜新橋の東京地下鉄道を軸にして新宿・渋谷のルートを最優先に、 運用調整の目的で新橋駅の幻のホームが設置されたのが真実だったそうです。 まあ、新宿・渋谷から全部銀座・日本橋・浅草方面に流すには、厳しいですね。 仮に全部流すとしたら赤坂見附以西は単純に半減となりますし。 ただ、東京高速鉄道側と東京地下鉄道側の接続について色々と大変だったようで、 虎ノ門〜新橋を複々線対応にするなんてのもあったそうですが。 東京高速鉄道による乗っ取り騒ぎはこの接続に関する件が解決した後に起きた話だそうで、 東京高速鉄道側としては、端的に言えばこの交渉の結果「頑固すぎて話にならん」っていう感じで、 買収してまえって結論に達したという事で、 しかも東京地下鉄道側も一枚岩ではなく、 根津嘉一郎はその辺は柔軟だったようで、 自分とこの東武からだけでなく、現・東急、京王、小田急とより多くから旅客を流し込める東京高速鉄道側の考えも理解する部分があったそうです。 両社の統合に根津も五島側に肩入れする部分もあったようなので。 だからこそ、新橋駅に二つのホームが併存する玉虫色の結果に落ち着かせたのです。 まあ、私鉄界重鎮の根津嘉一郎に阪急の小林一三までもが仲裁に入るような事態でしたし。 なぜ根津嘉一郎が両社の統合に関して肩入れした部分があったのかと言えば想像でしかないんですが、 東武の本線は両毛地区・宇都宮・日光から、(日本鉄道→)国鉄から外れた日光街道沿いの春日部・越谷を通り東京は千住・浅草に至り、 同じく経営にかかわっていた東上鉄道を東武に統合した川越から池袋に至る東上線も持っていて 本線側の浅草・東上線の池袋から都心部である日本橋・銀座エリアまで全てを抑える地下鉄事業を統合し影響力を保持し続けようとした考えもあったのかなと。 で根津と五島の考えが合った と考えてみれば何となく合点が行く気はします。 想像ですけどね。 まあ結局根津が鬼籍に入っちゃったんで止めるものが無くなったみたいな雰囲気になっちゃいましたが。 で、運悪いことに新橋駅のホーム計画が固まったのは上述の通り東京高速鉄道によるTOBより前で、 このホーム計画に関する交渉の結果TOBに傾かせたのですが、 新橋駅の工事が東海道線の高架下にかかったり地盤の関係っていう物理的な意味で時間を要してしまい 新橋開業とTOB騒ぎが時系列として外れる所、結果的に被ってしまったことが、 直通させるためにTOBを行ったと認識された理由であると参考文献に記されています。 運輸省大臣の佐藤が陸上交通事業調整法を盾に帝都高速度交通営団に統合され、 長らく続いた営団地下鉄銀座線、東京メトロ銀座線へと現在まで続きます。 ちなみにこの陸上交通事業調整法は現在の国道16号の内側を全て統合させる計画もあったようですが、 それは私鉄各社の反対が大きく頓挫しました。 というわけで銀座線は日本初やら東洋唯一の地下鉄とかそういう文言で書かれていることが多いかと思いますが、 営団地下鉄設立まででいえば昼ドラバリの滅茶苦茶にドロドロな歴史でした。 ちなみに現在の東京メトロでは東京地下鉄道側の記述(しかもTOB騒動前)はそれなりに多くとも、東京高速鉄道側はあまり少なく、 このページの参考文献ともしている2021年2月末に刊行された書籍によって この争いの詳細な顛末が記載されています。 余談ですが銀座線最新車両1000系も東京地下鉄道側のがモチーフなんで結局そういう事です。 このように戦前の銀座線を巡る東武VS東急の代理戦争ですが、 戦後日比谷線との直通運転を巡ってまたまたひと悶着起きるのです。 2.日比谷線 〜東武VS東急のあとがき〜 1941年営団発足時路線計画案

1946年戦後復興計画

1956年私鉄・都計画

1957年答申

1964年現在で関係する路線図

戦後復興に伴って、地下鉄建設が再開されますが、 日比谷線についていえば戦中辺りに原型と言えるものが出現し始めています。 何ならこの頃から相互乗り入れに関する検討がされてますし。 ここで東京都に私鉄各社に色々と路線計画を出します。 上記PDFをご覧ください。言葉にすると面倒なんで(笑) で、現在の地下鉄路線網としては原型と言える路線が少ないです。 これは銀座線の項にも書いてありますが、当時の都心=開業済みの銀座線新橋〜浅草間+東京駅近辺であることに留意する必要があります まあ1946年時点では、2号線が北千住起点が維持された以外に何故か崩れた形になり 既に開通済みの銀座線は、建設入ってる丸ノ内線は(中断期間はあったそうですが)、その辺は別として 東西線以外だけです。現在の路線と直接リンクできるのは。 今の路線が見えてくるのは1957年〜1972年です こういった様々出されたルートを整理して、 都心から 北千住方面 祐天寺方面 とかそんな路線を計画し2号線として昭和32年には現在の日比谷線のルートや直通運転が確定します。 都内の地下鉄が直通運転を基本としているのは関東大手私鉄がこうやって路線を計画し、ほかに営団やら都も計画し、 全てを整理統合し役割を各路線で持たせた結果なんですね。 まあこうやって各社が乱発して路線を引くとなると利用が不便になるというのも却下理由の一つ 特に運賃面で。 例えば、中野・代々木上原・中目黒・北千住から中央区・千代田区・文京区辺りに行くのに1社じゃ済まなくなるケースが今以上に増えるのかなと そうなれば欧米みたいに、例えばパリみたくメトロとRERが共通ゾーンで運賃共通みたいに 東京でいえば山手線西側〜荒川(赤羽・北千住・平井・東大島・葛西)の間は東京都心ゾーンとして各社共通に、境界駅を境に運賃を計算するとかですかね。 それはそれで今のメトロと私鉄・JRの乗り換えと変わんないけどね。 まあ見てみたい世界観ではあります(笑) ※この辺まではメトロアーカイブアルバムの各路線の建設史が参考文献です。 で、日比谷線は 1961年より部分開業し、 1962年に北千住から東武線への直通が 1964年に中目黒から東横線との直通が始まりました。 南千住から開業したのは北千住駅乗り入れ工事の関係ですかね。 直通するにあたり車両規格を合わせる必要があります。 当時の東武は国鉄からの規格型電車の割り当てを受け、20mの大型車の入線が可能で、 東武的には初めて都心に直結する電車なわけで輸送力を確保したい思惑があります。 で、東急はというと傘下の伊豆急の車両が走ったりで大型車も入れなくはなかったんですが、 恐らく別にどちらでも的な感じだったからなのか分かりませんが、 オリンピックまでに工事を終わらるべく急こう配、急カーブを容認する18m中型車に営団側に傾いたそうです。 ちなみに、戦後復興の中心は東京の西側に移っていき、東武よりも東横線側の宅地開発が進みます。 ただ、あくまでも宅地開発が進んだ のであって、 新宿や渋谷が副都心として開発されていくのは70年代まで待つ必要があります。 まあ私鉄のターミナルデパート位は建ってますが。 新宿西口は淀橋浄水場で、その跡地を開発したのが今の西新宿です また、防空壕残ってて原宿でザリガニ釣りやってたって話を渋谷出身で前職場の再雇用の人から聞いた位の感じなんで。 なので、東横線側の利用が増えると踏んだのか、多数決の原理なのかそうなったって事です。 で、蓋を開けると直通を機に開発がガンガン進んだ東武側の利用者数が増えます。 東横線側は渋谷経由の客が大多数で残った為です。 それでも渋谷経由の客はそれなりには減ったそうですが、東武の浅草に比べればかわいいもんだったそうですけど。 先述の通りまだまだ皇居周辺や中央区、港区への通勤需要の集中が強く そうなると時間的には東武の方が近いわけで、そりゃ東武側の開発がガンガン進むわって話です。 外部的要因で国鉄の国労、動労の労働争議の過激化が進むと 高崎線や東北本線と東武くらいしか23区に繋がる路線がない埼玉東側、北関東で東武に客が流れ込むという現象もあったそうです。 もともと中目黒側からは8両で八丁堀返し、北千住側は6両だったそうですが、 北千住側を8両にしたり、 69年に開通した千代田線作ったり(まあ北千住だけじゃなく常磐線救済の側面もありますが)、 それでもヤバいので、 東武の私鉄最長の複々線化や北千住駅重層化へとつながっていきます。 有名だとは思いますが、この当時の北千住は日比谷線と東武線が同じホームで接続していて、 北千住が乗換駅としてパンクしてしまう事になっちゃいました。 それでも日比谷線が準急として直通をしなかったのは18m車として直通することの他にも、 やはり準急は栃木・館林から直通してナンボだったというのもあると思います。 当時東武特急は日光輸送に特化していて栃木や宇都宮線内などの需要を考えるものではなく、快速や準急が担う部分があり、そういう部分では地下鉄直通準急は向かなかったのもあります。 東武がこういう複々線や北千住駅重層化へと舵を切ったのは浅草駅の制限や 山手線へと繋がらず地下鉄への連絡を重視しなければならない事情があったからこそ出来た物です。 複々線でいえば1974年竹ノ塚(関東私鉄初)・1988年草加・1997年越谷(この時点で私鉄最長)で、越谷複々線完成と北千住改良が同時に完工しここで現在につながる形が出来ます。 2001年に北越谷まで伸びましたが。 北千住重層化で、準急(→急行)・特急と日比谷線が分離され北千住の混雑が幾分緩和されました。 そして直通運転区間も最初の北越谷から1966年に北春日部・1981年に東武動物公園・2013年に日光線南栗橋まで延長 日比谷線は完全に東武線側の輸送が強くなっていきます。 こんな感じで東武線の利用者数の割に混雑率が高くないのはこんな事情があります。 常磐線、東北本線、高崎線も似たようなもんで、 東北本線(→JR宇都宮線)・高崎線は新幹線開通が大きいですが。 東武は街道沿いの昔からある所で開発から取り残されたとか貨物列車が走る分設備に余裕があったからやりやすかった部分があると思います。 この北千住駅混雑緩和ではこういうインフラ面の整備だけでなく、新たな都心直通として半蔵門線直通という運行面でも対策がされ、 東横線側でも変化が訪れることになります。 これは後発の地下鉄にも関わることなんでそちらで詳細は記載します。 日比谷線の経緯については、傘下に銀座線の運営会社を持っていた東武と東急が新たな都心乗り入れ路線として相乗りする形になったものの、 東西線と同じく開発途上の地に都心直通路線を入れると沿線が住宅地に変わることを現し、また東武VS東急は銀座線の時代のテリトリー争いを超えた 都市の発展の過程で解消していくことになりました。 現在の日比谷線は東急との直通が終了し、東武線との結び付きが強くなり、東武線から主要な都心ルートとして重要な路線になってます。 急行線は半蔵門線直通に完全移行し、日比谷線直通は各駅停車の役割がより強くなります。 東武特急の春日部・栃木・新鹿沼が全列車停車になったのも2001〜2003年の話で、特急料金の値下げも2003年で、半蔵門線直通が開始した 半蔵門線直通が急行になったのは2006年ですからそういうのも見込んでいたのかなと思いますね。 久喜・南栗橋で分断する手当的なので。 →後編 都営三田線、有楽町線、半蔵門線、副都心線

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