・モノレール開業まで 60年代に入り、航空需要は著しく増加し都心から空港までの所要時間は バスで当時の京浜国道(現在の第一京浜)経由で約1〜2時間掛かるようになってきました。 今でも第一京浜〜環八経由だと1時間は普通にかかるので、想像には難くないと思いますが。 当時国道357号線なんか当然ありませんので。 そんな状況を見た訪日観光客誘致の筆頭、帝国ホテル社長が知り合いのスウェーデン人のアルウェーグ式モノレール開発者にモノレールの話を依頼 そして53年運輸省、国鉄、日立製作所を呼んでアルウェーグ社による説明会 1960年アルウェーグ社と契約をし1961年日立モノレールコンサルタント設立 実験台として1962年名鉄犬山モノレール開通 しかし1959年大和観光という競合他社登場 しかし、そこと協調路線をとることにし大和観光は日本高架電鉄に変更 計画を懸垂式(上野動物園みたいなやつ)から跨座式(現・東京モノレールみたいなやつ)へ って流れで、モノレール建設へと話が進みますが 当時の都は、首都高出来ればモノレールはいらないという考えで、しかも当初計画起点駅の新橋は、新幹線建設反対運動中 が、モノレールは歓迎の動きはあり、 まあ、時代の趨勢ですかね。 そんな中蒲田辺りでモノレール誘致の話があり、62年蒲田への免許を申請します ただ、実現していないので、そういう事です。 そして車が増え都心〜空港の交通量増加で、モノレール建設による抜本的な解決をという声が高まりますが、 ルート選定で、一筋縄ではいかないことになります。 始発駅候補の新橋は先の理由で、困難と判断 第二候補の浜松町が良いと判断し、駅前の都バス車庫跡地(浜松町営業所)を貸してもらうよう申請 しかし航空センター創立事務所がヘリポートとして使いたいと言うことで競願するも 都はどっちつかずの所、ヘリポートは地元の反対もあり日本高架電鉄に払い下げ 他のルートは今のと同じで決定するが、開業直前で、買収話がまとまる事例もあったとこの事です。 建設については海老取川トンネルは時間かかりそうなので、首都高と同時建設 空港内は当時のB滑走路下をシールドで掘るため、正式施行認可前に、特認で着工 困難を極めた個所は昭和島車庫(→昭和島→京浜3区埋立地)で、埋め立てて日が浅く、 足場が緩く、大森海岸からの船便以外交通手段が無いという状況 しかも船便は一日数便 そんなこんなの約1年半の突貫工事で、64年竣工 1964年5月に親しみやすいよう東京モノレールに社名変更 ・モノレール開業、そして経営悪化と好転 開業後物珍しさで満員になり7分間隔で運転 当時は名鉄の人的バックアップあり、乗務員研修も前述の犬山モノレールで行うものの65年終了 五輪終了後、経営悪化し 当時の\250というバカ高い運賃もあり輸送人員は2000人を切る日も 消費者物価指数で当てはめると現在約\1080ってところでしょうかね 航空需要増加とはいえ、当時は、今みたいにそう気軽に乗れるシロモノではないですから…飛行機は。 そこで経営立て直し策で1965年5月大井競馬場開業 レース開催時のみ営業ながら、1000人は利用したそうですが。 運賃を、均一から区間毎に変え、定期も売り、空港観覧客を当て込んだりしたが これらは全て焼け石に水 そして66年に値下げして 普通運賃は\100引きの¥150 それで、現在だと¥580程度です。(物価指数の変動も考慮) ただし、当時は国鉄と京急バス乗り継ぎで\55で空港へ行ける時代 現在だと大体¥220くらい 当時の経済力を考えてください、値下げしても高い方です。 そして、国鉄と連絡運輸締結 1967年 羽田整備場駅の開業 航空関係者の通勤を取り込みます。 ちなみに、競馬場前も整備場も当時は屋根無しの簡易構造 現・整備場駅です。 当の経営状況ですが、客は、70%増えはしたが、利益は値下げもあり対して変わらんかったとの事… 最大でも20%UP 当時成田の計画もあり、本格的に危機を迎えると感じ 抜本的な会社再建のため日立運輸東京モノレールが発足 しかし1967年以降状況が好転します。 海外旅行が一般化し、 地方空港もジェット化が進んで航空旅客増加します。 まあ、経済状況が良くなったんでしょうねぇ B747機就航もこの辺だったと思います。 機体大型化で値下げしてでも搭乗率を上げたいという航空会社の思惑もあるので。 沿線の埋め立てが進展し、開発へ 1969年新平和島駅開業します。 現・流通センターです その近隣にはトラックターミナルが出来たことによります。 そして浜松町には1970年貿易センタービルがオープン 首都高横羽線延伸で渋滞が悪化し、 時代の流れで、運賃の割高感が薄れる、安くて早いモノレールというのが定着します 横羽線の渋滞緩和の抜本的改善は結局首都高湾岸線開通や最終的には中央環状線品川トンネル開通まで待つことになります。 1969年から、500形導入による大型化を図ります。 懸念材料だった成田開業で、客減るかと思われたが モノレールと航空券の抱き合わせ販売やら、修学旅行の誘致を行い、 で、成田の特殊事情に加えに国内需要増加で言うほど旅客数は減ることはありませんでした。 ・羽田アクセス独占時代 都市交通モノレール開発へ技術協力をしています。 東モノの現状を洗い出し →大阪万博モノレール →北九州モノレールと続いていくことになります。 例えばアルウェーグ式は日本に向かないとかうんたらあったそうです。 が、後述しますが6両やら快速による追い抜きとかやって輸送力が大きいモノレールはここだけです… 国内では…ですけど 1981年には日立運輸から東京モノレールが独立します それは経営好転があり今後の羽田沖展等状況変化でも、柔軟性を持つためで 労使ですったもんだありつつも独立します。 同時期には、空港アクセスの定番となってきましたが、混雑が目立ってきます。 対策として、浜松町を皮切りに羽田、他駅に利用者カウンターを設置し、 定員を120→95に減らしつつ混雑率を120%に抑えるため、700形投入し、増発を図ります 車内はロング化、荷台を設置 1974年よりやってた6両運転を、83年から全列車に広げ これにより、2両固定ユニットの構造から、中間車専用800形を入れて、定員増加を図る 1982年、700形より冷房化 そして駅改良を進めます。 ・浜松町 エスカレーター増設、自改機倍増、案内表示機、安全柵設置 ・大井競馬場 駅老朽化 →大井埠頭の開発(八潮団地とか)で利用者増加し、今の2階建て駅舎に ・流通センター 駅老朽化 →流通センタービル展示場の入場者UP、現在の駅に ・昭和島 85年に出来たが、西口のみ開設、同年中に、東口開設 ・整備場 空港関係者のための駅で、昼間無人だったが、時代の流れで航空需要が高まりそれに伴い、 通勤客増加したため、駅舎改修、屋根設置 というよりマトモな駅舎無かったです。写真見る限り。 ・羽田 客の導線、切符購入に時間かかるんで、導線改良、券売機増設 1989年に現在も主力を張る1000形投入 3両+3両→6固定ヘ 車両大型化、6固定化、増発により、昭和島車庫の増築を決定 変電所強化も実施 羽田空港沖合展開事業(沖展)による延伸が計画されます。 ルートは以下三案を検討 A案(下図オレンジ線) 羽田から直接延伸 →本命 B(下図茶線) 流通センターから分岐、湾岸道路沿いに延伸 C(下図緑線) 国際線開業前のルート→建設ルート Aの方が安上がりだったが、詳細調査で、工事が困難と判断、 Cは道路上空を利用出来、工事も楽かつ安上がりで、Cに決定 ヤフー地図を基にペイントで加工 赤線は当時のモノレールのルートです。 85年、整備場〜新東ターミナル(現・第二ビル)の路線免許交付 新西ターミナル(現・第一ビル)で2期に分ける分割工事を採り、一部は新A滑走路と同時施工 余談ですが、この建設計画図に、国鉄京葉線があり、りんかい線の話に繋がります 上図、天空橋付近の点線(→東海道貨物線)がそれです。 ・競争激化時代 1992年天王洲アイル駅開業 東モノ初の請願駅です。 当時陸の孤島と呼ばれた天王洲アイルの利便性向上 当時再開発が進んでいたとこですね。 そしてATCを投入します。 羽田新線が開通 旧ターミナル直下の羽田駅は埋められたそうですが、 トンネル入り口だけ塞いで、駅自体はそのまま残ってるという噂もあります。 1993年9/27現第一ビル駅まで開通、新整備場・第一ビル駅開業 空港客の増加し、中間駅の利用者数も増加 1996年 浜松町駅南口開設 1998年京急がターミナル直下まで延伸 バスや定額タクシーも含め、ここから競合激化します 97年改正から、 早朝、深夜便への対応を進めていきます。 93年から自改機の本格導入が始まり、2000年昭和島で完了 98年浜松町駅に シティーエアターミナル開設 航空券発券から、チェックインまで一通りおk しかし、eチケットとか自動チェックイン機とかで営業終了します 跡地はエレベーターを設置 1997年 2000形導入 2001年改正で、 羽空発の臨時列車を定期化、ノンストップで運転 今の快速の走りですね ・利便性向上と現在・今後の話 1998年以降、京急延伸により客が減少します。 そうなって、新線延伸の償還がキツくなるのではとなり、JR東に資本握ってもらった方が良いのではと社内で検討が始まります。 親会社の日立も日立で、モノレールを売却したいという意図があり、 平成以降の不景気もあるし、JR東に渡したら、 金もあるし同業ということで利便性向上出来るのではという意図もあり、 日立の交通システム事業発展にもJR東と組んだ方が得策という判断 JR東はJR東で、羽田アクセスに参入したい →羽田新線や東海道貨物線旅客化よりモノレール買収の方が手っ取り早い モノレール・日立・JR東の三社思惑一致により2002年、モノレールへのJR東参加へ →日立は技術的な観点で従来通り資本は出す。 →JAL/ANAも資本参加へ しかしJALは後々の経営破たんの関係で東に資本譲渡 その後、 →JR浜松町モノレール口開設 →京浜東北線快速浜松町停車 →早速Suica導入 →企画券も投入 →同じく東の資本が入ったりんかい線天王洲アイル開通に伴い 天王洲アイル南口開設 乗り換え利便性向上 という、モノレール誘導策を実施 天王洲アイルの件はしばらくは、りんかい線→モノは便利だったが、逆は不便でした。 しかし2004年、跨線橋共用により解消 りんかい線と連絡運輸開始 2001年よりホームドア設置 2002年ワンマン化 2004年12月 第二ビル駅開業 そして快速運転へ 2003年日中のみ快速運転 停車駅は天王洲アイルのみ停車 しかし、普通列車の間隔が空いてしまうなどがありました。 2004年8月 浜松町ポイント改良により、所要時間ちょっと短縮 しかし、競争力強化には更なる輸送量増加が必要で そのため昭和島に待避線を設置することになり、2006年着工に2007年完成 2007年昭和島待避線共用開始 空港快速、区間快速運転開始し、 空港快速による追い抜き運転が開始 2010.10/21 国際線開業(→現在の第3) →軌道をターミナルに合わせ移設 →高架であることを活かし、シームレスに移動できるよう設計 浜松町行きから降りれば第3のチェックイン→セキリュティ→イミグレ→搭乗口まで階段無しの移動を実現 京急のページでも書きましたが、2020年でご存じの通り、例の感染症騒動で大きく状況が変わってきちゃいまして、 国際的な人の移動が制限され、ほぼ国境封鎖に近いレベルにまでなり、国内にしても行動制限掛かりましたねぇ。 羽田空港も第2ターミナルの国際線エリアが開業数週間も経たずに封鎖。 この年に、国内線第1・国内線第2・国際線のターミナル分布から、 現在の通り第1・第2・第3となったんですがね。 国内線に関して言えば一年も経たずに移動制限は無くなり、2022年ごろにはほぼほぼ戻った感じですが、 国際線の戻りは2023年ごろでも完全に戻ったと言われれば微妙な所。 まあ、2023年には実質感染症騒動前に戻った感じになりましたけども。(管理人も2023年に国際線乗ったし。旅行記参照) 運行形態的には、2022年に日中のダイヤが大きく変わり、 空港快速と区間快速・各駅停車を5本ずつ運行していたものを、 空港快速と各駅停車を6本ずつで10分間隔に変更しています。 区間快速が凄く影薄くなりまして、早朝上り1本→一往復/日まで減便されました。 今後としては、 浜松町駅再開発や、 JRの羽田アクセス線って感じですかね。 モノレールの延伸はまあ断念だそうですが、 モノレールはJR東傘下の路線ですが、多重投資になると色々と言われていますが、 JRの方は田町から東貨タミを経由して首都高湾岸線沿いに進んで、羽田空港P3付近直下に駅が出来ます。 まあ京急の駅の所って感じ。で、東京〜田町のアクセス線枠を考えればそう頻発はさせられなさそうで、 何ならJR東の発表だと毎時4本程度って事らしいですし、 結局のところ東京駅からだとモノレールが早くなるパターンもまあまあありそう。 で、本数多いのを利用して、モノレール自体は空港勤務者を取り込もうとしています。 京急だと品川・横浜で分散するところ、こちらは浜松町まで100%行きますし。 何より第3ターミナルにはJRは行かないですからね。 まあ、いつの日か、外国航空会社専用ターミナルになりそうですけども。第3は。 第2ターミナルにANAの国際線が入ってきたのは上記の通りですが、第2ターミナルの拡張が終われば、ANAの方は全面的に第2に移る予定で、 JALの方も第1ターミナル拡張次第で国際線も第1に移る計画なので。 そんなわけでJRとモノレールは、急行線と緩行線のような関係に落ち着きそうな気がします。戻る