東京の貨物線


貨物列車しか通らない鉄道路線は都内にも存在します。
現在では、新金貨物線・越中島支線・東海道貨物線ですが、
これにまつわるお話です。

まあ、後半はほぼ都内関係ないけど、話のキリが悪くなるんで、埼玉とか千葉の話だったとしてもそこは気にしないでください。

以下に表示する路線図はGooglemapに加筆しています。


1.新金貨物線・越中島支線

現在でも残る貨物線では早期にできたのがこの2路線
常磐線の金町駅から、中川沿いを通り、京成高砂駅をかすめて中川を渡って新小岩操車場に至るのが、新金貨物線

その新小岩操車場からそのまま総武線に沿って、亀戸駅あたりまで行ったところで南下し明治通りに並行するように、
地下にある西大島駅辺りを越したくらいで、廃止された小名木川駅に辿り着きます。
現在ではアリオがある所で、都バスの境川辺りが近いです。
で、廃止後、小名木川からは越中島貨物駅構内扱いになり、東陽町の免許センターの近くで、永代通りとの踏切を通り、
京葉線と、東西線深川車庫に挟まれた場所にある越中島貨物駅に到着します。

この路線、開通は新金貨物線のほうが早いんですが、計画というかそんなのは越中島支線の方が早いです。

このサイトでも書いてる所ですが、
元々は、東京から足利への貨物メインの鉄道として計画された、東武伊勢崎線の計画路線でした。
まあ、行政サイドと折り合いが合わずに、北千住~久喜での開通が先行したんですけど。
で、貨物輸送がメインということで、現在のスカイツリーである業平橋・越中島にターミナルを設けたのは、
水運積み替えなんですね。

江戸の町は舟運が物流の要で、現在でも都心部では川が多いと思いますが、その名残です。
暗渠になったり、首都高で埋められたりした川も多いけどね。

というわけで、内陸の遠隔地から、積み替えスポットで舟で都心各地に運ぶスタイルでしたね。
あと、越中島は東京湾にも近いんで外港航路への積み替えにも便利だし。
あ、江戸時代の海岸線は今の東西線辺りですからね(笑)
それどころか、1910年代ぐらいまではまだ東西線辺りがまだ海岸ですからね

東武北千住~久喜開通が1899年で、その3年後には吾妻橋(→スカイツリー)、1904年には亀戸まで開通しています。
総武線両国乗り入れで一旦吾妻橋は廃止され、総武線国有化後に、1908年に吾妻橋が復活し、現在の浅草駅ができたのは時代がずっと下った1931年

最初の頓挫が、行政サイドとの折り合い付かずですが、その頃は、東京の町拡大で、
江戸時代では江戸の範囲(朱引)外であった、江戸四宿の町(品川・新宿・板橋・千住)も含めて東京市が発足するころで、
この絡みじゃないかって話です。

次は、吾妻橋復活後で、今度は現在の東陽町辺りまでの延伸を計画しますが、市街地化が進んで、土地取得に手間がかかるのか
まあ、無かったことになっちゃいましたね。
このまま新橋延伸の計画もあったようですが。

まあ、当時は浅草が東京で一番の繁華街で、そっちに近い吾妻橋から浅草延伸考えれば、
わざわざ大枚叩いて、越中島伸ばす意味も無いということだとは思います。

というわけで、東武線の越中島延伸はこういう訳で頓挫しました。


ここで、一旦新金貨物線の話に。

新金貨物線は千葉からの貨物列車が隅田川を超えられず、不便していたのを解消するためにできた路線で、
当時は上図の通り、両国で隅田川航路に積み替えか、
亀戸から北千住を東武線経由で常磐線に抜けるルートのいずれかでしたが、
どっちにしろ不便でしょうがないので、
1926年に開通
その3年後に国鉄が東武が作ろうとしてた、越中島支線を作り、当時は小名木川駅まででしたが、
戦後の1958年に越中島貨物駅までできました。

こちらも水運連絡で、越中島の方は東京都港湾局専用線を通って、当時工業地帯の豊洲や晴海辺りまでの輸送も担ってました。
また、今の東陽町辺りに汽車製造っていう車両メーカーがあり、ここ謹製の車両が越中島支線を経由し、各地に輸送されていきました。
現在では汽車製造は川崎重工に統合されて存在しません。
東京都港湾局専用線については後述します。

こっちは国鉄ですから、土地買収もまあ、アコギなやり方も出来たでしょうし…
戦前じゃね。

栄華を誇ったこの2線も、国鉄貨物の衰退にモータリゼーションの進展で、衰退に入り、
豊洲や晴海辺りの再開発も多分止めになり、今みたいな寂しい感じになってしまいましたね。。
ウォーターフロントとしての都市開発されれば、貨物線よりも都市鉄道である地下鉄の方に力を入れるのは当たり前ですからね。
この辺の話は東京都港湾局専用線の項で後述しますんで。

というわけで、国鉄としての越中島支線は東京都港湾局専用線の話が大きなウェイトを占めます。

新金線の方は、
武蔵野線開通も少なからず影響はあったんですが、2000年までは、大宮・越谷・柏方面から千葉への貨物列車は
引き続き新金貨物線経由の総武線だったんですが、
その2000年に南流山から武蔵野線・京葉線経由で千葉へのルートに移行したんで、新金線はより閑散としちゃいましたね。

ちなみに、武蔵野線と総武線は接続されてないので、総武線関連の貨物列車は引き続き新金線通りますし、
越中島貨物駅には東京レールセンターといったJRの業務施設ができて、そこ謹製のロングレールを発送する拠点になってます。

葛飾区では新金線旅客化を言ってますが、あまりJRは乗り気じゃないようで、
越中島支線も似た話ありましたが、地下鉄8号線(豊住線)の方に回った感じですね。

もし、この越中島支線が東武のものだとして、
1899年の開業に間に合ってたとしたら、越中島辺りから特急が出てたと考えると、今の浅草より不便になってましたね(笑)
まあ、東西線との連絡ができるようになると考えると…いや、銀座線とか都営浅草線の方が便利ですね。
北千住のターミナル機能が今よりも重要だったかもしれません。

吾妻橋復活後なら、今の亀戸線みたいな感じでしょうね…
どっちにしろ、あまり現在では日の当たらない路線だった感じだと思います。
新橋まで開通してれば、メインルート…とはならないかもしれません

遠回りといわれる半蔵門線経由以上(発着地によるが千代田線より5分~10分余分にかかる)に、亀戸線・越中島支線経由の方が遠回りなんで。(新橋まで伸びても)
…新橋から越中島行って、亀戸・曳舟通ってじゃ(笑)


ただ、東陽町や亀戸は東京東部の街としては主要な所で、そこから同じく東部主要な街である北千住まで繋がってる事を考えるんなら
主要な街通しを繋ぐ路線として現状の亀戸線みたいな感じでも賑わいは違うかもしれません。豊住線の計画に影響が出たりね。(こっちに繋がったりして(笑))

とはいえ、都心に直結する日比谷線・半蔵門線直通が通勤輸送主体になる現状が変わらず、
特急列車は吾妻橋復活しない前提でで、新橋延伸が頓挫したとなればあれば北千住が全面的に拠点化し、吾妻橋復活(→浅草延伸)や新橋延伸が現実になってもルートの関係で、今と何が変わるの?的な感じだったと思うんで、

前述したとおり、浅草延伸に力を入れた現実通りの方が良かったですね(笑)
今でも浅草は繁華街だし、東武サイドとしても、業平橋の貨物ヤードが無ければ、その跡地に建った上に事業主としてスカイツリーで稼ぐなんて事出来なかったですし
結局この2線は寂しさ溢れる現状となる事が避けられなかったかもしれませんね。

まあ、寂しくなったといっても、総武線への連絡には新金線は必要だし、越中島支線もJRの施設があり、
越中島謹製のレール輸送路線で、レールは鉄道として重要な要素なんで、
両線は、寂しくなりつつも必要な路線として、鉄道好きにしか日の当たらない路線として今後も残っていくと思います。


見えている複線の部分が小名木川駅の跡地
現在はほどんどアリオになっちゃいましたね。

一日に1~3往復程度新小岩から越中島に向けて列車が走ります。
ちなみに、上記の通り小名木川駅跡からは越中島貨物駅構内扱いなので、清洲橋通りを渡るこの橋を走る時も入換運転
そんなこのDE10は入換に、本線運転にマルチに使えるディーゼル機関車

DE10撤退後はこのDD200が越中島支線の主役かもしれませんねぇ
どっちにしろ都内でディーゼル機関車が走る貴重な線区ではありますけどね


2.東京都港湾局専用線・月島線

東京都港湾局専用線とは、その名の通り東京都港湾局の専用線です
…なんていうと元も子もないんですけどね(笑)

上記の越中島支線の項でも書きましたが、現在の越中島貨物駅から、江東区塩浜を通って、豊洲や晴海各地への貨物線です。
現在では、豊洲から晴海通りの月島・銀座方向に向かって、IHIの本社近くにある春海橋の横に使われなくなった鉄橋がありますが、
こいつがこの東京都港湾局専用線の遺構です。

で、この専用線目的は、
船から揚がった貨物の輸送だけではなく、江東区湾岸エリアは元々工業地帯で、その物資輸送もありますね。
豊洲とか晴海をセレブエリアなんて思っている方もいるかもしれませんが、
元々は工業地帯ですからね。
もっと言うと、1932年の地図には、「埋立地」としか書かれていない土地で、震災がれきで埋め立てられたという話です。
この豊洲で大きい事業所が、石川島播磨重工業(IHI)の工場や東京ガスの向上や火力発電所などがありました。
晴海は今でいうと大井ふ頭みたいな感じで、この一帯は港湾の町でしたね。

1953年に深川線・1957年に晴海線が開通しました。
ここだけで見れば、越中島支線の小名木川~越中島より早ない?と思いますが、

実は1958年の越中島貨物駅まで開業というのは、正式開業としてで、しかも「越中島貨物駅が完成」した年で、
1945年には越中島まで開通しているそうなんですが、1947年の地図には、南砂の汽車製造の工場までしか線路が掲載されてなかったんですよね…

で、1958年までは専用線含めて、小名木川駅構内扱いです。

開通後は最大22往復の貨物列車が専用線から越中島支線経由で各地まで運転されました。
なので、越中島支線とこの専用線はセットなんですね。

で、衰退の要因は上項の通り、モータリゼーションの進行に、労働争議激化による国鉄貨物衰退・エネルギー革命だそうです。
大口顧客の火力発電所ですが、昔は石炭で水を沸かした蒸気でタービン回して、発電してたのを
石炭が衰退し石油に移行していった訳ですね。

基本的に火力発電所は物流の便を考えて港湾エリアに作るんですが、そうなれば別に鉄道で発電所の燃料運んでもらう必要はないわけで。
石炭は内陸部で産出されますが、石油は基本的に産油国から輸入するんで。

まあ、水力発電所の方は逆に内陸部に作るんですけどね。
水の位置エネルギーで発電機回すんで。

ということで、需要が減って、この専用線は廃止されてしまいました。
1985~1989年の話。

ちなみに、この専用線の話は廃止されてハイおしまいで終わりなんて訳はなく、
晴海線の春海橋の辺り位から月島を通って今は無き築地市場の貨物駅まで到達し、
東海道貨物線に接続し、汐留方面に向かう月島線計画がありました。

まあ、専用線衰退の理由がこの月島線頓挫の理由でもあるんですが、
千葉方面から東海道線に回るのに、新小岩・金町経由で運転させる必要があり、面倒くさい
しかも都心部に貨物列車はどうなのか?みたいな感じもあったそうです…
例えば、70年頃には今の埼京線の計画が持ち上がり、赤羽線の池袋止まりではなくそのまま新宿方面にまで伸ばす事も検討されていたならば、
確かに貨物列車はどうかとなりますよね。
まあ、埼京線云々は月島線頓挫とは関係無いんですけど。

結局は東京外環状線計画として月島線が担うはずだった役割を担い、実際に開通していきます…
月島線があったら?っていうのはまた後述します



3.東京外環状線(武蔵野線・京葉線・りんかい線)


東京外環状線とは、現在の武蔵野線・京葉線・りんかい線・東海道貨物線(東京貨物ターミナル~川崎貨物)が該当する各線になります。
計画上では
・武蔵野線:鶴見~府中本町~西国分寺~新座~南浦和~南越谷~新松戸
・小金線:新松戸~西船橋
以上が現在の武蔵野線

・京葉線:川崎貨物~東京貨物~新木場~南船橋~蘇我~木更津
現在の東海道貨物線・りんかい線・京葉線・京葉臨海鉄道が該当

こちらの建設目的はさっき書いた通り、月島線開通の目的と同じく、
千葉方面から東海道線への連絡の簡略化・都心部への貨物列車乗り入れ排除・通勤輸送改善のための都心部の貨物線の活用のため
になります。

一番最後の都心部貨物線の活用は、山手貨物線に品鶴線っていう路線で、
現在でいえば、湘南新宿ラインが上記2線をまとめて経由します。
赤羽出て、王子越した、上中里辺りのトンネルから、大崎までが山手貨物線
そこからは品鶴線
ほかには埼京線が池袋から大崎で山手貨物線
横須賀線の品川~横浜間で品鶴線を経由します。

で、元々横須賀線は大船から東京まで東海道線と線路を共有していましたが、そんなことやってたら両線の増発なんて
出来ないので、横須賀線と東海道線を分離するために品鶴線を空けろってことですね。
さっき書いた埼京線云々は関係ないとはこういう事で、武蔵野線の開通が、東北新幹線計画の2年後で、
埼京線自体は東北新幹線上野延伸に関する土地収用の交渉過程で浮上した路線で、
東北新幹線計画がスタートした時点では、埼京線はまだただの赤羽線として池袋~赤羽を往復した山手線の名残部分でそれ以上でもそれ以下でもないわけです。

話は反れましたが最初にこの一環として、浜松町から東京貨物ターミナル経由で、塩浜まで開業しました
その塩浜というのは現在の川崎貨物ターミナル

塩浜から浜川崎は元々川崎駅につながってた貨物線の一部で、川崎へはそのまま廃止されてしまいましたね。
同時に尻手短絡線も開業しました

1973年の話

1976年には、鶴見への短絡線が完成

その1973年には武蔵野線府中本町~新松戸が開通し
国立~新小平の国立支線、西浦和・武蔵浦和~大宮の大宮支線、南流山~北小金・馬橋の各支線も同時に開通
ほかには新座と越谷の貨物ターミナルも完成

武蔵野線利用者で思う方は多いかと思います。
なんで武蔵野線乗換駅は急行やら快速が通過するねん…
っていうかなんで急行・快速通過駅ばっかり通るんだよ…と。

これは貨物輸送を主眼に置いた路線で旅客輸送は、この路線を通す見返りで、最低限運転すればよい
という考えがあるからで、

国分寺の隣の西国分寺
所沢の隣の新秋津
志木の隣の北朝霞
浦和の隣の南浦和
越谷の隣の南越谷
柏と松戸の間の新松戸
船橋の隣の船橋
と街の中心部をことごとく外し、土地収用の手間をかけなかった為です。

…東上線の朝霞台と東武線の新越谷って急行停まるよな?
と思いますが、すべて97・98年に停車

新越谷の方は97年草加~越谷間複々線完成に伴うダイヤ改正で停車

埼京線と北総線は武蔵野線開通後の開業で、それでも北総線の停車は2009年
東西線はそもそも西船橋終着の駅ですからね。

という感じなので電車も日中で40分に1本しかありませんでしたね。

1976年には府中本町~鶴見が開通し、
埼玉方面から東海道線へのバイパスルートが開通し、
1978年には西船橋まで開通し、この段階で武蔵野線が全通しました。
ただ、まだ京葉線は開通してなかったんで、
貨物輸送は鶴見から南流山までで、東海道線・中央線・東北本線・常磐線各線から通過するか、武蔵野線内の新座・越谷貨物駅、武蔵野操車場
発着の貨物列車に限られましたね。
逆に旅客列車は府中本町から西船橋までで、
府中本町以南は南武線と平行だし、旅客化する意味も無いってことでしょうね。

その武蔵野操車場とは1974年に出来た操車場でヤード輸送式貨物列車の中継基地です。
現在の吉川~三郷間にあり、駅間全て武蔵野操車場で入換作業は自動化されているという豪華仕様

ヤード輸送式とは、
例えば、常磐線から貨物列車が武蔵野操車場に入り、
編成の貨車を全て解結することで
越谷貨物行き
中央線へ
東海道線へ
というようにバラし、
それぞれの行先に組成しなおします。

で、例えば東海道線への列車なら、
更に新鶴見操車場で、
塩浜へ
磯子へ
東海道線をさらに大阪方面へ
というように更にバラして組成しなおすを繰り返す方式

現代のコンテナ貨物列車は直行輸送で、
常磐線日立駅から福岡貨物ターミナル行きの貨物列車があるとして、
日立と福岡貨物を直行するんですが、
途中の越谷貨物・横浜羽沢・神戸貨物・広島貨物で停車してコンテナを積み込み・積み下ろしもするという
まあ、言ってしまえば普通の電車と同じような運行するような形態ですね。

武蔵野線の開通が早かったのは街の中心を外したからとかなんでしょうね。
まあ確かに1977年の地図・航空画像見ると、貨物専用区間の鶴見から、府中本町を経て、新小平くらいのほぼトンネル区間までは、既に都市化も進んでましたが、
そこから、新秋津・北朝霞・現さいたま市内・南越谷・新松戸周辺以外は、宅地・商業地化してないですからね。

ちなみに、武蔵野線鶴見~新秋津の神奈川県内・東京都多摩地区でほぼほぼトンネルで抜けるのは、
上記の通り宅地化が広く進んでいたのもあるんでしょうけど、そもそもとして多摩丘陵なんて言われるような土地柄で、
トンネル通すメリットも大きかったってことでしょうね。

逆に言えばそれ以外は埼玉県・千葉県内で、東上線・京浜東北線・東武線・常磐線っていう東京に直で行ける沿線以外はまだまだ開発途上と。
まあ平野部で、上記路線の沿線も余裕があったんでしょうけどね。

1977年当時は新松戸~西船橋がまだ未開通ですが、西船橋周辺以外は…てな所
で、平成元年頃の航空画像で見ると、さすがに武蔵野線沿線も都市化が進行しましたけどね。

ただ、南越谷~南流山間はここ10年ぐらいまではあまり当時と変わんなかった気がするけど(笑)
最近になればほぼもう街中を走ってますが、大体は武蔵野線開通が先なんですよね

という感じで武蔵野線の開通までの流れはスルスル進んでいき、開通後も列車増発というこちらもスルスル行く経緯を辿っていくんですが、
武蔵野線とセットのはずの京葉線は、スルスルなんて行かず、
面倒くさい流れになっていくわけです…

現在の京葉線は本体はからは南にずれたものの東京駅から地下トンネルで、八丁堀・門前仲町に近接した海洋大学の下の越中島、
越中島貨物駅で地上に出てすぐに潮見、新木場…と通って、蘇我に至りますが、

元は川崎貨物から京急小島新田の辺りで地下に入り、羽田空港の旧整備地区東側・京浜島の各地下・東京貨物を通って、
当時13号・10号埋立地と呼ばれた、台場・有明地区の地下を通り、新木場に入るのが本来の京葉線
もっと言うと貨物専用線でね。
羽田空港の沖合展開事業がされてなければ、ターミナル直結の駅作れるような位置を走ってますね(笑)

最初の開通は1975年に今は無き千葉貨物ターミナル~蘇我という、
今でいえば千葉みなとから東京よりに数キロの地点
まあ、当然貨物専用区間

京葉臨海鉄道にも千葉貨物駅が存在しますがそれとは別物
どちらも東京外環状線を構成する路線なんですけどね
まあ千葉貨物駅は1997年まで村田駅でしたけど。

改称から2002年に千葉貨物TMが廃止されるまでの5年は紛らわしかったんでしょうけど。

で、京葉線はまだ、千葉貨物TMから西船橋方面まで繋がってないので、千葉貨物TM出たら、
蘇我で前後に進行方向を変えて、総武線を抜けて新小岩・新金貨物線経由で各地まで運転されていきました。

ただ、それ以外の区間は海の底にトンネルとか、そんなような所だったり、
「成田空港認めるからその代わりに京葉線は旅客化せい」という千葉県の要請だったり、
日本の工業も大量安売りから高くて良いものを売るみたいな感じで、工業のスタンスと土地利用が変わってきたり、
バブルで郊外に家を構える需要が出てきたりと、
最終的に京葉線は旅客線として体裁を整えることになります。

というわけで、西船橋まで開通し、武蔵野線と直通…はまだお預け
とは言っても、西船橋~千葉みなと間で蘇我までは旅客化してません

JRに変わり平成も末期、1988年12月に新木場までと、西船橋デルタが完成

ここまでで、開通したのは、
浜松町・東京貨物~川崎貨物・浜川崎・尻手短絡線・新鶴見
新鶴見~府中本町~北朝霞~南浦和~南越谷~新松戸~西船橋~南船橋・市川塩浜
新木場~市川塩浜~南船橋~蘇我

これで、品鶴線・山手貨物線・東北貨物線の容量の緩和になりましたね。

問題はここからで、
京葉線本体は、前述の千葉県の要請通り東京駅に向かいます。
東京~潮見は成田新幹線で使用する予定だった「土地」を利用して乗り入れました。
越中島貨物駅の辺りで地下に潜ります。一応京葉線から保線用車に限っては両線を行き来できますけどね。

もし、月島線が残っていれば、地下に潜るにしても、そのまま月島線直下で、豊洲・月島・築地を経由して新橋に至っていたかもしれませんね。
どっちにしろ月島線は地上からは消えたと思いますが。
そうなれば有楽町線にも影響があったかもしれません。
車庫の確保が命題であれば、もしかしたら豊洲から有明の方に向かってたかもしれないし。

ちなみに、京葉線と有楽町線の直通計画もありましたよ。

そんなわけで1990年に東京まで開通をもって京葉線は全線開通となります。

りんかい線に関する部分はこちらも参照ください

以下は抜粋します。 残った東京貨物~新木場間で一部完成した京葉線トンネルはJRは引き取らず、 10・13号埋立地の開発に伴うアクセス鉄道の一つとして活用させることになり、1989年には計画がスタートしました。 で、その10・13号埋立地ですが、京葉線全通後1990年ごろの航空画像見ると、あらかた埋め立てが終わったことで、 現在のりんかい線となる路盤が所々中途半端にできてます。 が、首都高湾岸線が、東海Jct~東関東が開通して久しい時です。 ちなみに、このころはまだ羽田空港の沖合展開事業が大詰めで、1991年に現在の第1ターミナルができて、空港中央ランプは、 1993年の完成 第2完成は2004年とずいぶん後の話。土地は出来てたけどね。その海側のC滑走路は1997年には供用開始ですからね 10号埋立地は有明の地名が付きましたが、 このころの13号埋立地(→現・台場)や有明の施設と言えば船の科学館・有明コロシアムとかそんなのくらいで、 それ以外はすべて港湾施設のみっていう。 最近江東区と大田区の帰属が決まった中央防波堤は絶賛埋め立て中 湾岸線の臨海副都心ランプは最近まで13号地ランプだったから、お台場=13号埋立地ってのは割と知られた話かな? この辺の埋め立て地が臨海副都心と呼ばれます。 で、このエリアの再開発は、結局中止になった都市博・バブル崩壊を経て、 商業施設を中心にしたものになり、京葉線未成区間を引き継ぐ鉄道会社として、東京都を筆頭とする 東京臨海高速鉄道が設立されました。 中途半端に出来ていた区間は貨物列車の走行を考慮し、勾配が緩くなっていますが、 それを繋ぐ区間は電車の走行のみを想定しているので、全面かぶりつきをしていれば案外分かるかもしれません(笑) 1996年、既に完成した区間が多かった東京テレポート~新木場のりんかい線が開通しました。 当時は4両でしかも都心方面との連絡は新木場のみで、先に開通したゆりかもめに水を空けられましたけど、 りんかい線は通常の鉄道規格で、新木場で地下鉄有楽町線・京葉線に連絡できたので輸送力は段違いだったけど で、元は同じ京葉線だし、車両検修を京葉電車区に委託してた関係で、新木場では線路が京葉線と接続されてます。 東京テレポートから先は、元々大崎延伸を標榜していたらしいですね。 2001年にはりんかい線天王洲アイル開通 りんかい線は臨海副都心開発の遅れが祟って、経営的に厳しかったんですが、 その頃はその頃で、開発が遅れつつも進んできて、今度は早く大崎開通しろという港湾局の圧力や、 出資企業としては2000年大崎開通を前提にしてたんですけどね。 というわけで、上記の天王洲アイル開通はすでに遅れたんで、とりあえず先行開通ということなんですね。 東京テレポートから、貨物線として転用したのは東京湾を超えた品川埠頭までで、そこからは新規にトンネルを掘りました。 天王洲アイルから素直に、大崎に向かうより遠回りですが、 そこは株主の意見ですね(笑) あとは、既存鉄道路線との接続の兼ね合いとか。 京急とは接続できてないけどね。 モノレールの天王洲アイルは、こちらも倉庫街という港湾地帯だったのを大人でラグジュアリーな再開発を機に 請願された駅で、開業は1992年とりんかい線よりずいぶん早い開業でした。 モノレールと乗り換えられれば浜松町と羽田に行きやすくなったしね。 (…あんなに駅が離れてるのはモノレールそのものは1964年開通だったり、りんかい線は京葉貨物線を最大限活用することになってるからでしょうね) 天王洲アイル開通から遅れて1年、りんかい線は大崎まで全通し、埼京線と直通運転を開始しました。 埼京線との直通に関する経緯ですが、 元々大崎まで通すのを標榜していました。 りんかい線は東京都が筆頭なんで、副都心開発(臨海副都心・大崎・渋谷・新宿など)を筆頭する都市計画に沿ったものだとは思うんですが、 最初から山手貨物線に乗りれる気満々だったんですが、京葉貨物線を出自とすれば元は同じ鞘の JRとしては、直通どころか構内乗り入れはお断り的な感じでした。 計画がスタートした1989年の埼京線はやっと3年前に新宿まで伸びて、、 湘南新宿ラインの前身にあたる、宇都宮線・高崎線池袋行きと、わずかに日数本の新宿発着列車が運転されてる程度でした。 ちなみに、高崎線と宇都宮線の池袋行き、 実は、これは武蔵野線で空いた東北貨物線を活用したラッシュ時の赤羽発着列車が本当の前身です 赤羽までとは中途半端に見えますが1984年にこの運転が始まり、まだ埼京線未開通前で、東北新幹線も大宮~上野が未開通 池袋~赤羽間はまだ赤羽線としてピストン運転してた時代なので、それに接続させるという意味が大きいと思います。 1985年に埼京線になっても赤羽発着は結構残ってましたからね。 上述の通り、1986年に埼京線が新宿に延伸し、1988年に宇都宮線・高崎線が池袋に延長 余談ですが、管理人がまだ小さいころ、池袋から日暮里まで山手線乗った時に、「なんで高崎線の車両がこんなところにいるの?」と思った思い出がありますねぇ 1996年までに、宇都宮線・高崎線の新宿、埼京線の恵比寿までの延伸がされていますが、 このころの山手貨物線は、埼京線と他列車で運行管理が違って、 埼京線の方は信号保安はATCで、PRCという自動で進路を構成する運行管理システムを採用してました。 それに、名前の通り貨物線なので、通勤電車を大量に受け入れるような造りになってなかったり。 りんかい線受け入れの流れができたのが、この宇都宮線・高崎線新宿乗り入れ列車を素地とする湘南新宿ライン計画ですね。 これを機に山手貨物線を改良し、旅客列車を大量に受け入れるようにする 池袋の南側での平面交差を解消するための池袋改良工事も盛り込まれます。 2001年にとりあえず湘南新宿ラインが開通 今の半分の本数で、 新宿発着がまだ多かった頃。 池袋の改良がまだってのもあるし。 ↑の理由もあれば、山手貨物線がまだ大量の通勤電車を受け入れられないっていう事情もあって、 昼間は、高崎線~東海道線、宇都宮線~高崎線、新宿~東海道線や横須賀線の列車が毎時1本ずつっていう布陣でしたね。 2004年・2005年には、湘南新宿ライン大増発に、池袋改良完成、 運行管理システム・信号保安装置の統合がされました。 このころには、現在の山手貨物線とかその辺の形が出来上がりました。 元は山手貨物線大体だった京葉貨物線が、姿形変えて、その山手貨物線に乗り込んでくるっていう、時代が変わるとこうも変わるのかというね。 ちなみに、残った京葉貨物線の品川埠頭~東京貨物ターミナルは、 その東京貨物TM隣の東臨運輸区(車庫)への回送線として活用されているのは有名どころ まあ、りんかい線沿線で車庫作ろうとしてももう土地も無いし、2002年位じゃ中央防波堤なんてまだ埋め立て途上だし、 東京貨物ターミナルの隣ぐらいしか場所が無いし で、東京貨物~浜松町に向かう方は、汐留の貨物駅があの辺再開発で汐留シオサイトになってみたりして、 貨物の取り扱いが無くなって、その前後に2000年開通の都営大江戸線環状部工事の土地の関係でこの路線は休止になっちゃいました。 架線も外されちゃいましたし。 全区間東海道新幹線の大井車庫への回送線に並行してます。 というのが、東京都内に存在する各貨物線の経緯で、 現在の運行状況をまとめると、 越中島支線→日数本のレール輸送列車 新金貨物線→上記のレール列車・総武線鹿島方面への貨物列車 東京都港湾局専用線→晴海橋横の鉄橋・枝川近辺の空き地以外遺構なし 東京外環状線 →武蔵野線(一部貨物専用区間) →京葉貨物線→京葉線・りんかい線 山手貨物線→湘南新宿ライン・埼京線・相鉄線直通 東海道貨物線 →品鶴線→湘南新宿ライン・横須賀線・相鉄線直通 このうち相鉄線直通は、羽沢横浜国大からJRに入っていきますが、 ここから東海道貨物線を経由して運転します。 鶴見あたりから、湘南新宿ラインと並走して、そのまま新川崎は通過して新鶴見操車場で、湘南新宿ラインに合流し、 武蔵小杉からは、湘南新宿ライン・埼京線の経路で、新宿・大宮・川越に向かっていきます。 発表ダイヤでは思ったより少ないように見えますけど、 結構この経路って西日本からの貨物列車の主要経路なうえに、横須賀線も湘南新宿ラインもそれなりに本数あって ねじ込めるスジって少ないんですよね。 …まあ相鉄の本命は東急新横浜線の方なんだろうけど。 まあ、相鉄線直通の経路は湘南ライナーとかで既に通ってますけど。 武蔵野線の大宮支線については、むさしの号が八王子から大宮まで通ってましたけど、 ここ最近はしもうさ号で西船橋からも大宮に向かってますね。 こちらも貨物専用区間を走っていきます。 またJRの羽空アクセス線が完成すれば上図の浜松町~東京貨物間はこの休止中の貨物線を利用し、東京貨物から羽空1・2Tまで 多分R357沿いにトンネルを掘っていくと思います。 りんかい線も活用して、新宿・新木場方へも直通する予定だそうですが… 新木場方は上述の通り京葉貨物線の残骸が残っていて、川崎方になるはずの線路ははりんかい線の車庫引き上げ線、 千葉方になるはずの路線はとりあえずトンネル躯体は出来ていて、発泡スチロールで埋めただけらしいんで、 線路つなげるぐらいでいいですけどね。 運賃云々もあるそうですが、どうなるんでしょうねぇ… りんかい線と京葉線が直通しないのであれば、空港駅の改札を分離すれば何とかなりそうですけど、そうでもないなら、 …随分先の話ですから、そん時はそん時で状況が変わってるかもしれません。 今回紹介した区間では、 今でも貨物列車しか走らない区間もありますが、東京の貨物線は大部分が通勤電車も走るようになって、 あっちこっち直通運転する鍵になってます。 貨物線を走る列車に乗るときにふと見てみると結構名残があるので、普段の平日じゃ混んでて、そんなの観察する余裕も無いんでしょうけど、 そういうを見るのも一興でしょうかね。

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